沖縄県島尻郡南風原町 南風原町観光協会 公式サイト 沖縄県島尻郡南風原町 南風原町観光協会 公式サイト メールでのお問い合わせ
金城哲夫アーカイブ

玉城 優子

プロフィール

ライター・編集者。1993年に沖縄タイムスで金城哲夫の伝記『沖縄を愛したウルトラマン』を連載。

 

発言内容

― きっかけは?
ベルリン(映画祭)に行って、そこでは有名な映画監督の名前がついたホールとかいろいろあって。
「いやいや沖縄でもちょっとね、そういう貢献した人の名前がついたホールがあるといいよね」みたいな話になって。金城哲夫っていう名前のホールとか通りとかあっても面白いよねっていう話をしていて。それがちょっと金城を追っかけようかな。
 
― 取材はどのように?

私は金城のルポすると言ってその春から動き始めて。1回円谷に夏に行って、前年の夏に行って、ちょっと話を聞いたぐらいだったので。
実は私がルポやる前に、金城の同窓の山田輝子さんというかたが本を出すっていう事を知っていて、それで一度、あの山田さんに会いにいったんですね、東京に行ったときに。山田さんとちょっとお話したら「いや、沖縄のことは沖縄の人にしか書けない。自分もやったけど沖縄のことは自分書けなかったので、やるんだったら是非沖縄の人が書いてくれるんだったらその方がいい」っていう後押しを受けて。「じゃあ頑張ってやろう」ということでやり始めたんですよ。

これはパナリ本舗という名前でそういうイベントをやったんですけど「金城哲夫の世界」というそういう名目で。
まず、残っている資料とかを整理するところからやろうということでやり始めて。

この雰囲気としては、なんかまだ金城さんの事が悲しみというか触れちゃいけないみたいな雰囲気がまだあって。亡くなられてから奥さんも忙しくされてたし、お店のほうも忙しかったので、金城が亡くなってお母さんもその翌年に亡くなって、結構不幸続きもあったんだと思う。
悲しみからまだ解き放たれてないというか、そういう雰囲気がありましたね。この部屋もそのままでしたし。

私のほうの連載のイベントに絡めて家族のかたの取材をしたり、円谷で一緒だった方の取材をしたり、上原輝夫先生を取材したり。

まずあの沖縄の中学校の時の同級生を、裕子さんも中学校の同級生なんですけど「真和志中」。
中学校の同級生は金城がよくターザンの映画を、劇場で観たのか本で読んだのか今はっきり思い出せないんですけど、学校でターザンについてお話をよくしてたみたいで。金城の話があまり面白いんでだんだん輪ができてきて。金城もすごい乗って「ターザンがあのこの川に落ちて、さあどうなる! 次は明日!」とかいう感じで。
構成の運びというか、今日切る所と明日から話すところの盛り上げ方がすごく上手だったみたい。次の日にはさらに取り囲みが増えて、よそのクラスからも見に来たりですごい話が面白かったっていうことを言っていたお友達もいました。

 
― 哲夫さんの幼少時代のエピソード

沖縄戦を小学校に入る前に金城は体験しているんですけど。
お父さんの忠榮さんは戦争で徴兵されて、従軍されてビルマのほうに行くんですけど。おじいさんの忠助さん、忠助さんの後添えのシズさん、でお母さんのつるこさんなんですけど、一緒にこの空襲が激しくなって壕に行ったりとかするんですが、その時につるこさんがおじいさんを爆撃があって、庇って足をやられちゃうんですね。
ここからシズさんと忠助さんと金城は逃れて、その時につるこさんとすぐ下の妹(榮子)さんを置いていってるんですね。

つるこさんが長男である金城を連れて逃げて、自分たちの事はいいから逃げてくださいみたいなことを言ったとか言わなかったとか。とにかく長男である哲夫を守らないといけないという事で、弾が飛んできたらおじいちゃん、金城、自分が上になって二人を守ったと言う話。
金城の上に必ず自分がいたと。あのかぶさって守ったという話をされていました。それでずっと逃げて、いろんな死体の屍の上を色々こうやりながら逃げたよという話をしていて。
まだ可愛い子なのにお母さんもいなくて一人ではぐれていたとか、本当子供の姿がとても目に焼き付いていたようで、その話を特に多く私にしていました。
それで生き延びて、捕虜になるんですけども、収容所で妹さんとおばあちゃんが無事かどうかというのを、あの色々手をつくして確認したという話をしていました。
とにかく哲夫を守らないと金城家は残らないという思いがあったみたいで、とにかくそれで連れて行ったっていうふうな話をしていました。

お母さんはその後、キリスト教の信者になって。シズさんの話は、シズさんの戦争の時の話にはそういう話だったんですが、なんか私は納得がいかなくって、何回かお聞きしたんですけども、色んな思いがあったんだと思います。ただ、シズさんの話では、つるこさんがキリスト信者になって、心が救われたと思うという話をしていたので、自分はそれは良かったという話はしていました。