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金城哲夫アーカイブ

金城 京一郎

プロフィール

金城哲夫の長男。大阪で料理の修業をして、現在は「松風苑」の代表者・料理長。

 

発言内容

─ ご自身の幼少期

沖縄に来たのはね、僕の記憶では4歳ぐらいなんですよ。
向こうで生まれたんですけど、向こうで生まれた4年間というのは、ほとんど父の記憶はないですね。たぶんずっと仕事ばっかりしてたんでしょうね。

だから母と一緒に過ごした記憶はあるけれども、父と一緒に過ごした記憶はないですね。
(戻ってこられて、すぐ南風原の方に?)はい。すぐ「松風苑」の実家。実家で母と僕と姉。ここへ着いて、えっと源氏郎が次男が生まれたんですね、間も無く。着いて1年ぐらいかなあ。生まれたんですよ。

父、最初はこの「松風苑」手伝ってたんじゃないすかね。手伝いながら沖縄のことで何とか貢献したいってことでね。お芝居なんか? 沖縄芝居なんかを手伝ったりしてたみたいですね。

 
─ ウルトラマンシリーズを見ていましたか?
僕が観たのはもう再放送ですよ。たぶん初代が昭和39年ぐらい? 40年ぐらいでしょ。僕が観たのはもう再放送ですよね。「帰ってきたウルトラマン」ぐらいからは記憶にありますよ。テレビにかじりついたという記憶はあります。
(お父さんがウルトラマン関連の仕事をしていることは)ええ、わかってました。「帰ってきたウルトラマン」も小学校入ってたんじゃないかなあ。
親父が関わってたってのは知ってましたね。でもね、こういうのは学校でも僕一言も言わないし友達には。僕にとっては親父だからね。「金城哲夫」ってかんじじゃなくて「ただのお父さん」だから。
 
─ どういう父親でしたか?

声がとにかく大きいんですよね。声が大きくてね、よく笑ってたし。
で、怒られた記憶ってのはね、ただ一度だけね。亡くなる一週間ほど前ですよ。ちょうど2月の20日ぐらいですかね。ちょうど桜の花が咲いていて。
木の下に呼ばれて「お前は長男だからしっかりしなさいよ。」と。「しっかりと弟の面倒みながら頑張っていくんだよ」と、その一言だけ言われて。まあ、叱られたっていうより、言いたかったんでしょうね。
その記憶はあります。それから一週間もしないうち亡くなったからね。まあ不思議なもんで。虫の知らせかなんか知らんけど、親父にとったら。

そうですね、あんまり会話っていうのは、普通の息子と父親の会話ってのはしたことなかったですね。
仕事が本当にもう好きで、毎日仕事してるようなもんでしたからね。
実際「松風苑」にいるんですけど、自分の書斎にずっと篭りっきりですから。ご飯たべにちょこっと降りて来るぐらいで、ほとんど顔合わすことなかったですよ、同じ敷地内にいるんだけど。

沖縄の歴史とかもね、書斎見たら結構勉強したんだなあって。

(PTAとかには、お母さんがいらしたんですか?)えっとですね。ちょうど僕が父兄参観で一度だけ親父が来た記憶があります。ちょうどね僕、南風原小学校(通学)だったんですけど。津嘉山小学校から分離して、姉が1期生で僕は津嘉山小学校2期生なんですけど、その年の父兄参観日に来てました、親父は。
まあ、あれが最初で最後ですよね。ほんとにもう、胸張ってこうやってきて「京一郎!」って大きい声で。僕恥ずかしくってね、。授業中呼ばれて、今でも覚えています、はい。

 
─ 馬に乗った思い出

僕も乗せてもらいました。僕の曽祖父が馬を飼ってたんですよ。獣医で、でも元気な馬だったからペットとして飼ってたんじゃないですかね。敷地内にいましたから。2頭ぐらいいたんですよ。
当時はこのへん砂利道ですけど一帯は。(馬に)親父乗って、僕ら弟と後ろに乗っけてもらって、津嘉山をトコトコトコトコ(回って)。
でも側溝に落ちてコケたんですよ、僕ら。馬に挟まって。それを親父が何とかして助けてくれて。

あんまり普通は人がやらないことを平気でやってたんじゃないですかね。
多分おじいちゃん譲りだと思いますけどね。ウチのおじいちゃんもちょっと変わってましたからね。はい、忠榮です。

 
─ 父親が亡くなった当時

えっとね、10歳ですね。小学校5年生ですから10歳ですね。昭和50年ですからね。
ちょうどね雨降りで、第一発見者はちょうどうちで働いてたおばちゃん。もう亡くなってもういないんですけど。津嘉山のおばちゃん。
その方が第一発見者で、おじいちゃん呼び来たんですよ。当時いたのは、僕とおじいちゃんだけだったんですよ。お袋いないし、姉もいないし、弟たちもいないし。僕とおじいちゃんが。
「京一郎お前も来い」って言うから行ったら、もう倒れてるんですね。向こうの階段の下で。倒れてたもんですから。そしたらすぐ「タオル取って来い」って言われて、すぐタオル取りにいって、頭抱えて、頭が出血が酷かったんで。これまあ、もっと大変な状況だったんですよ。
タオル巻いて、救急車呼んで。そのまま中部病院に。2日後だったかな、3日後だったかな?もう亡くなりましたけど。

だからその日の夜お袋が病院行くとき「留守番頼むよ」と。「お姉ちゃんと二人留守番頼むよ」と。「もしかしたら助かっても二度と仕事はできないはずだから」「覚悟しとこうね」「うん、わかった」ということで。
まあ病院から戻って来たときには、もうダメだったということで。

(おばあちゃんは、そうとう哲夫さんをかわいがっていたと思うんですけど?)そうですね。溺愛していたと思いますよ、哲夫のこと。もう亡くなったらずっと寝込んでましたから。
後を追うようにね、もう1年もしないうちにおばあちゃんも逝ってしまった。親父が2月26日で、命日が。おばあちゃんが1月の何日だったかな。ほんとそう1年もしないうちに。
だからうちの忠榮おじいちゃんは大変だったと思いますよ、当時は。息子亡くして奥さん亡くしてね。

 
─ 父の作品の印象

怪獣の名前に沖縄っぽい名前が出てくるでしょ。あういうの観てたら「親父が関わったんだな」っていうのがわかりますよね。ウチナーンチュが書かないとああいう名前は出てこないからね。
沖縄芝居のね、色々また作品残したけど、それももうちょっと奥深く勉強してみてもとかね。僕も一度観ただけでね、芝居ね。

 
─ 父親がまだ健在だったら?

みんなも言ってると思うんだけど、もしあのまま元気でいてくれたら、何をしてくれたのかなと。何をしてくれたのかなと思ってね。
まだ、ただ「松風苑」は継がなかったと思う。まあ家業は継がないね。
もっともっと沖縄のために何かやってくれたんじゃないかなと思うんですけどね。