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金城哲夫アーカイブ

上原 誠勇

プロフィール

上原美智子の夫で金城哲夫の義弟。南風原町で「画廊沖縄」を運営。

 

発言内容

─ 哲夫さんを知ったのは?
1974年・5年・6年と、海洋博前後の頃ですね。1975年に結婚しましたので、松風苑にちょっとお忍びで彼女に会う時でも、その時には74年ですね。
哲夫兄さんらしき人はいるなという感じは後で知ったんですけれど。まあ、そのくらいでほとんど分からないし、ただ結婚した後、松風苑の近くにアパートに住んでいる頃ですかね。私はヤギを飼いながら絵を描いていましたから。
 
─ 印象に残っているエピソードは?
琉球放送のラジオドラマを作ったり番組出たりしていましたので。よく飲み会があったんでしょうね。美智子を通して「誠勇、ちょっと車、あそこ置いてあるから、駐車場に置いてあるから取って来てくれんか」とか「今、大城立裕先生と飲んでるから、ちょっと送ってくれ」という事で、大城立裕先生を後ろに乗っけて、哲夫兄さん酔っぱらってたんだと思うんだよね、二人なんか会話してたんだけど後ろの席で。
海洋博が始まった頃かな。あの頃、結構お酒飲んでたんですよね。酩酊した状態で、僕ら2人が住んでいるアパートに来て「ちょっと酒ないか」みたいな感じで。その時からお酒無くしては生きていけないような苦しい状況だったような気がしますね。
 
─ 哲夫の作家活動について? 遺稿集に関わられた?

その時に黒島さんとか、RBC時代の人、皆さんと一緒にシナリオの遺稿集を編集するにあたって、挿絵描いてくれないか、という事で。
僕はまだ30才にもならない、26、7才でしょ。そんな時にね、やったこともない事を、義理の兄のね。義理の兄の世界もあんまり分からなくて。一応その当時、僕は目を通して描いたつもりですけど。琉球、沖縄の歴史も分からなかったですよ、実際に。
今でこそ、あれですけど、強くワッと惹きつけられるんですけど。1609年のね、薩摩侵攻の「噴煙」とかね、それから「虎、北へ走る」の尚巴志の琉球統一の問題とか。

それから日本復帰前夜ですか。それとか。祖国復帰前夜のね、ああいうかなりシリアスなものやってたんだなと。
最後に書いてる「原家の太良」なんて、すごいですね。
あの内容はとにかく酷くて。酷いっていうか、すごくてね。とても思い出すだけで。
今の沖縄の現状、あるいは、辺野古の問題、そして日本と沖縄の関係、そして琉球人としての誇り。そういうものとかが非常に入り混ざっていて、個人の中で混濁して入り混ざって、とっても苦しんでいる訳ですよ。あれは丁度復帰、いや復帰じゃない、海洋博の頃前後ですよね。最後のラジオドラマ。あれを読んだ時はきつかったですね。今のように、言葉失う。

今の時代に通じる普遍的な、沖縄の場所性とか歴史性。そういう事をあの当時、金城哲夫は思ってたのかなと。
そして、最初の「吉屋チルー」を作ったのも、あの内容もすごいですよね。
やっぱり普遍性があるし、純文学的な内容ですし、純愛物語ですよね。あれはなかなか否定できませんね。あの純粋さには、心打たれますよね。
だから、あの20代前半、すごい大人だったなということをね感じますけれども。
僕もたった2、3年ぐらいしか金城哲夫という義理の兄とは接触がないんですね。2年半くらいしか。で、ウルトラマンを作った男というのも、ずっと後からしか分からなくて。沖縄芝居とかそういうドラマに関わった人としてスタートして、そして沖縄、琉球の歴史に眼差しを向けたというね、脚本家という、そういう感じで見てきてたもんですから。