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金城哲夫アーカイブ

上原 美智子

プロフィール

金城哲夫の妹。染織作家として「あけずば織」などの作品を制作。

 

発言内容

─ 兄としての金城哲夫
哲夫と私は11歳も離れてるので、私が物心ついた頃にはもう玉川の高校に行ってて、まあ上京していて。
夏休みとか、場合によっては春休み、年に1~2回時々帰ってくる大きなお兄さんというのがまず第一印象だし、そういう関係なんですね。
兄とはなかなか接点はなかったけれど、私が戻ってきたときには、織物するときには、すごく応援もしてくれましたし。やっぱり兄が沖縄の文化にこだわってやってきたというのは、直接そういう会話をしなくても、諸々の仕事を通して、私はそれを強く感じていましたので。
兄弟ではあるけど、歳も離れているけど、そういう意味でシンパシーというんですかね、心の底で繋がっているみたいな。すごく少ない接点だったにも関わらず、強い絆、まあこれは私の一方的な思いかもしれませんけど、兄に対する思いは強いですね。
 
─ 作家としての金城哲夫

実はそもそも兄がそういう映像だったり、物書きだったりというものに一番最初に取り組んだのは「吉屋チルー物語」ですね。
それはやっぱりあの、(哲夫が)24歳でしたかね。家族の協力があったとは言え、「そういうことを作ろう」という気持ちと、実際に作った、仕上げたというこの力量というか、情熱というか。そういうものは40年経った今でも、あるいは40年経った今だからこそ、客観的に見て、すごい仕事を残した。
「兄」ということではなく、すごい仕事を残した「人」になっちゃうんですね、その時は。やっぱり同じ「ものづくり」としては尊敬しますし、なかなか後にも先にもなかなかこういう「こう破天荒な部分を含めながら強い思いをもった人というのは…、そうそうは出てこないのかな」と客観的には今思いますね。
そして作られた作品を通して沖縄に対する深い愛情っていうのかな。もう本当にあの兄の場合はあの、沖縄に惚れ込んでしまったという言葉が適当かどうかは…、そういう面が強いんじゃないかなと思いますね。

なかなか客観視できなかったんですけども、やっぱり考えてみたら結構わがままで、自分の思ったことをやり遂げるという、芸術にありがちなタイプですけども。
そもそも「吉屋チルー物語」にしても、23~4の若者が脚本・監督まではまだいいんですけど、制作という、つまりお金の面でできるはずないんですよね。
自分の損得とか自分の名誉欲とかそういうこと一切関係なく「とにかく作りたい。沖縄の何かそういうものを作りたいと」いう一途な思いに、みんなやっぱりそこに「ワァーっ」と巻き込まれたと思うんです。
だからすごくその後、ものすごい借金を残したんですけど、誰も恨まない。誰も後悔しない。「ああ、あの時こうやればよかった」など誰も思わない。もちろん上映もされなかったし、金銭的な回収もできなかったんですけど。

「あれ(吉屋チルー物語)を作った」ということは、その当時もそういう気持ちだったんですけど、40年経った今も、もし父が母が、父が生きてたら105歳、母は98歳ぐらいになりますけどね「同じこと言うだろうな」というぐらい、やっぱり哲夫と一体となって、みんな沖縄に対する熱い思いがあるんですよ、家族中。母も和夫も父親も、もちろん哲夫も、。
そういうあのなんていうんだろうかな、損得とか社会的な名誉と関係なく何か物事を成し遂げていくエネルギーというのかな、そういうものはやっぱり自分の家族には感じますね。
それが突出した形で現れたのが哲夫だったのかなと思います。

 
─ 金城家と吉屋チルー物語
一番面白がったのは金城忠榮。父親だったと思います。
そして経済的に支えたのは母。もうあの義足の片足、義足でしたけども、一生懸命働いて、模合もいくつか起こして、それで資金をやりくりして。ほんとにあの精神的にダメージを受けるくらい借金残されたけれども、それでもやっぱり形として残ったフィルムの中に、みんなのそういう思いが詰まっていると思いますよ。
そして面白がったと言うのは、悲壮感が無いんです。金城家っていうのはね、もうすごく大変な目にあっても、なんでだか知らないけど、どこかで笑ってる。笑うというか「もうここまできたら笑うしかないよね」っていうようなとこまで、ギリギリのところまでやり尽くしたら、それで物事が全て上手くいくわけじゃ無いじゃないですか。
失敗もあれば、「こんな筈じゃなかったのに」ということも色々と出てくる。それでも、自分の純粋な思いでぶつかったわけだから、その結果がどうであれ、後はもう「しょうがないか、笑うしかないか」と思って切り返していくという。そこがまた金城家というか、私の父や母、兄弟が持ってる何か良いところというか面白いところというか、そういう面はありますね。
 
─ 兄 哲夫が残したもの

私が織物を始めようという時に、兄が、ただ一人兄(哲夫)が「いいじゃないか、沖縄には素晴らしい伝統工芸もあるし、沖縄の文化は素晴らしいから、頑張ったらいい…。だけどね、仕事やるからには一本の糸に惚れるような仕事をしなさいよ」と。
これは「よく30いくつかの人が、よくこういう名言を言ったな」と(思って)。死ぬだいぶ前ですからね。よくこんなコピーライターみたいなことを一言私に言ったんですよ。だからいつまでも忘れないで、ずっとこのフレーズが私の中に。

「一本の糸に惚れるようなことってどういうことだろう?」と。もちろん「糸を大事に」とかそういう一般的な解釈もありますけど、凄くそれは仕事していく上で深みに、深いところに向かっていくときに、一本のロープのようにこれを手綱のように引き寄せながら、自分の仕事を進化させていくというのかな、その時の…なんて言うんだろうね、「引っ張ってくれた 一本の糸」ですよね。それこそその言葉がね。だからそういうふうにして私の仕事を応援してくれましたね。それは凄く励みになっています。

だから60代でも70代でも、ずっとこれは噛み砕きながら「沖縄の文化ってなにかな?」「沖縄の中で仕事するってどういうことかな?」「人と関わるってどういうことかな?」って凄くそれを感じるのが、具体的な兄である哲夫と同時に、一人の「ものづくり」というか「クリエイター」の姿を通して、凄く具体的に感じるんですね。感じるし考えざるをえないと思います。

 
─ 今も続ける兄との対話

多分自分の中での兄像があって、その兄像も変わっていくんですね。30代の頃と、60代の、もうすぐ70ですけど、兄の像が変わっていく。でもそれは当然だと思いますし、ずっと切れずに、ある意味深く、兄という具体的な人物を通して自分が咀嚼する対象というか、それはやっぱり有り難いし…、よかったなと思うし。
またこうやって南風原の方々が取り上げて、あるいは以前にはもっと玉城さんもそうですが、真喜屋さんとか中江さんとか色んな若い人たちが取り上げて、ファンクラブのワタナベさんとかが取り上げて、ずっと途切れずに「金城哲夫」という人物に焦点を当てて、その時々に咀嚼していく、見直していくっていう、自分たちとの関係性をもう一回見直していくという、それが有り難いと同時に、そうできる対象である兄はやっぱりすごいなと思うんですよ。

「あ、そっかわかりました」と蔵に収めるんじゃなくて「何だったんだろうあれは?」っていう、絶えずその時代時代に色んな人がね、自分の仕事を通して咀嚼しなおす対象でありえた兄っていうのに対して、私は一番誇りを感じます。

 
─ 20年前と現在の哲夫像

そういう兄の苦しみのほうが90パーセント私の中に占めてて、まだまだ。何かそれを「とても面白い人だったよね」とか「実は父親がこんな夢見る人で、自分がやりたかったんじゃないの?映画作りは?」って、そんな視点さえ持てなかったぐらい、やっぱり私にとっては深刻なダメージだったんですよ。兄のああいう死に方というのはね。

とても咀嚼するという、噛もうにも口に飲み込むことすらできないぐらい、もの凄く重いものがあって。とても咀嚼もできなければ、人に発信することも出来ない。ただ「悲しい」「辛い目にあった」「生きてたらもっといい仕事できた」とか、そんなありきたりなことしか言えなかったと思うんですけど。
こうやって自分ももうすぐ70になろうとして、兄のもうすぐ2倍も生きていて色んなこと経験し、自分も「ものづくり」として時間を過ごすなかで考えてきた思考の変遷というのかな、そういうものを通してやっぱり兄の「若くしてあれだけの仕事を残した人」の内面というのかな、それから先の時間「もし時間を持ってたら…。どんな仕事したのかな?」という勝手な夢想というか、あるいは兄の無念さ、本当の意味での無念さを心底感じるんですよ。

あの時は無念というよりも、ただ悲しい。兄の気持ちなんかよりも自分が悲しい。大変、家族とね、周りにいる。
父親も大変。愛する母と長男を一度に亡くして。私も子育て一生懸命だから、とても毎日実家に行って父をサポートするという(事は)時間的に無理なんですよ、それはね。姉は姉で一生懸命子育て(をして)。
私はまだ「仕事を必死になって形にしたい」という強い思いがあったから。そういうものが全部10年経ち、30年経ちして、やっぱり咀嚼されたんですね。だからこうやって言葉に置き換えて、まあ客観的ってどこまで客観的かわからない…。自分のあくまで視点ですけど、少し兄のこととか、沖縄でものを作っていく人の仕事の仕方とか、やっと…言葉に置き換えることができるようになったかもしれませんね。

でもやっぱり兄が残した「一本の糸」ということを私はしっかり握りしめてここまで来ましたし、別にそれだけが影響を受けたわけじゃない。諸々のことが影響受けたし。一番は考え続けるんですよ兄のこと。これが一番の絆かなと思ってるんですよ。もう40年前に死んじゃった人と会話してるんです。