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金城哲夫アーカイブ

金城 裕子

プロフィール

金城哲夫の妻。円谷プロに所属していた金城哲夫と東京で結婚。

 

発言内容

─ 作家活動の哲夫は?
そうです、もう、ほとんど缶詰ですね。お家にあんまり帰って来ない時代ですね。
帰ってきてはまたね、そういうのだったと思います。
 
─ 子供達はお父さんが作ったのを分かっていた?
分かってないと思いますけどね。ただ、父親として話したかもしれないですけど。円谷プロに遊びに連れてったりはしてるんですよ。自分の仕事場見せに。だから、ぼんやりと知ってるとは思いますね。
 
─ 東京での生活は?、
生活は裕福ではないですよ。お金なかったかったですよ。
これ一本書けると、いくらくらい入るからどっか行こうねとか何とか、話はするんですけど、滅多にそういう事は実現しなくて。結局、給料もらっても、みんなで飲み会。あんなのに。
この前、櫻井さんがいらした時「あの時シナリオ代いっぱい入ったんじゃないですか」って言ったけど「いいえ櫻井さん、みんな飲んでしまったのか、お家に全然持って来なかったですよ」って話したくらい。
まあ、みんなそういう時代だったと思うんですよ。皆さんも。
 
─ 東京での生活で 一番思い出は
円谷家と近かったもんですから、子供たち、あの時二人だったのかな、連れて、主人も一緒に遊びに行ったんですけどね。
円谷監督の奥様がとっても優しい方でね、色々教えてくださったり、子育てのこと。夏なんか、赤ちゃんはよく汗かくから石鹸はつけなくてもいいから、ちょっと行水だけはさせてねとかね。そういう風にして教えてくださったりとか、記憶にあります。
 
─ 沖縄に帰る時にはご相談があった?
作家としてどう見てるのかっていうのがあったみたいで、答えが出たのが、怪獣作家として出てきたみたいのがショックだったみたいで、何かやらなきゃいけないって事もあったんじゃないのかなって思いますね。これで終わりたくないっていう感じで。だから、沖縄帰って、小説書こうとして、原稿用紙までプリントしておいてあると思うんですけど。
だから自分では何かをやらなくちゃいけないって考えていた事もあって、理由の一つはこれだと思うんですよね。だから帰って、いろいろ津嘉山の部落を回って、いろんな話をおじいちゃんおばあちゃんから聞いたり。移民の事も書きたかったみたいで。その話とか、いろんな。やってるような雰囲気でしたね。
 
─ 海洋博の頃は?

海洋博に反対する方々も大勢いらっしゃる頃ですから。だから、それをまとめるっていうんですかね。式典がありますでしょ。大きな行事のね。それのプログラムみたいなのも、開会も閉会も全部組み立てて行きましたのでね。これも、1分でも狂ってくるといけないんで、それにも神経使うし。だから皆さんが、出てもらう方にも交渉しないといけないし。
そういうのにもとても神経使って。金銭的なものが絡んで来ますでしょ。人を頼むってことは。そういうことにも悩んで。

本当は辞めたい。この仕事を辞めたい。本音はそうだったと思うんですけど。引き受けてるし、本土側の業者さんいっぱい入ってますでしょ。その方達も、自分たちも降りるみたいな言ったら、このダメになるじゃないですか、このイベントが。それじゃいけないんで、ずっと続けたっていう感じですね。本人は疲れきっていたんですよね。

 
─ 哲夫さんの強い部分と弱い部分

仕事は、もう目一杯やるというんですか。手を抜かない。それはすごいと思いますね。
で、彼の弱いところは、ちょっと優しすぎるっていうんですかね。例えばですね、私、模合行きますでしょ。そしたら、一生懸命書いてるじゃないですか、そうすると、私が模合行くって分かったら、放っておけないで、もうペンを許して「じゃあ、僕、連れて行くよ」って感じになるから。この辺を切っておけば一生懸命できるのに、この辺が弱いっていうのかな。そういうところがあるんですよ。

あの人結構、ユーモアがありますよね。じゃーむちゃっていうんですか、方言でね。でも、あれ結構神経使ってるんじゃないかと思うんですよ。私から見たら。みんなが朗らかに、盛り上げようっていう。
性格的に豪放磊落ではありますよ。ありますけど、ある面ではそういう風に細やかで。