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金城哲夫アーカイブ

黒島 昭男

プロフィール

琉球放送のディレクター時代に金城哲夫を司会者・作家として起用してテレビやラジオの番組を制作。

 

発言内容

─ 金城哲夫との出会いと交流

沖縄のアナウンサーだとか、あるいはキャスターたちとは違った雰囲気をもった、押し出しもいいし、爽やかだし。
私はすぐテレビのレギュラー番組の司会者に起用するんですよ。
それで、当時は「ペアで勝負」という番組を新しく立ち上げたんですが、その時の司会をさせてみたら、なんとまあとてもじゃないけど、アナウンサー的には劣らない、東京で磨かれたセンスみたいなものが番組の中に非常に出てまいりましてね、大変好評でした。

その後、こういう爽やかな人を正月の我が社が琉球放送が制作している「民謡紅白歌合戦」という2時間半の大きな番組の総合司会に彼を起用してみようということになりまして、かなり会社の上司は反対していたんですけど、私は思い切って彼を起用してみたんですね。その資料などは今もVTRとして残っているんですけども。
これも普通、琉球放送でもメインのアナウンサーを中心に進めるんですけども、金城哲夫さんを抜擢してやってみますとね、これもまた非常に良かったんですよ。

それで、私はもうすっかり彼に傾倒しましてね、テレビのレギュラー番組を作る。
それから東京放送を中心とする全国ネットの番組を沖縄でも当時よく作りましたから、特に「圭三訪問」とか「11PM」とか「家族そろって歌合戦」とか、そういう番組などの今度は構成をさせたり、あるいはゲスト出演をさせたりという形で、金城哲夫はテレビで活躍する時代があります。
もちろんラジオは「モーニングパトロール」という番組を毎朝やっておりまして、これも大変な人気番組でしたよ。
その頃が東京から帰ってきた金城哲夫の一番華やかな時代だったんじゃないかな。

 
─ 金城哲夫との思い出

「なぜお前は東京で、あれだけの放送スタッフとの繋がりもあるし、有名なディレクターやプロデューサーとも、キー局のみなさんとも親しくシナリオも書いていたのに、急に帰ってきたんだこんな沖縄に」と。
東京の人が、お前しょっちゅう沖縄の事ばかり言って「沖縄、沖縄」言うんだけれど、沖縄のために君は何をやったんだ? その仲間の誰かに言われたらしいんですよ。

その時にはたと自分なりに考えて「そうか俺は沖縄の為に何をしてきたんだろうか」と思って帰ることにしたよ、というのが私に対する彼の答えでしたね。
俺は沖縄へ帰って、沖縄の事を世界に知らしめる。全国的に知らしめるために何か大きな作品を書いて沖縄をアピールしていきたい、という心が帰る理由のひとつにあったんじゃないかなと、いうふうに私は思いましたね。

 
─ 海洋博 当時の様子は

海洋博のオープニングセレモニーの中の沖縄のコーナーみたいなものがあって、アトラクションやらいろんなものがあって。
閉会もあるいは沖縄でという3ブロックぐらいを当時担当していたので、彼は県庁か政府からのあるいは海洋博主催団体からの依頼であった構想とは別に、単独にイベントに関わっていたんですよ。
海の彼方からですね、本部の漁村の人たちが古来からあるサバニにね、松明をつけて乗ってずっと一列になって入ってきて、そこでアトラクションをやるという演出を彼はもってて。

地域のサバニを持ってる漁村の漁民たちと漁夫たちといろいろ交渉するんですが、地域が海洋博そのものに反対していた時代でしたから、なかなか自分たちが持ってるサバニでアトラクションに参画するという事はできなかったんですよ。
そのために彼は実はこういう事なんだと言って、村の集まりや会場にいって、漁民の方々と酒を飲みながら親しく語り合っているうちに、なかなか彼の考え方を受け入れてくれないと。結局はその構想はなかったんですよ。

わずかにオープニングにですね、サバニに乗せた7色の海の7つの海の潮水を入れた壺を持って立ち上がるというシーンがあるんですが、そのシーンに本当に綺麗でしたね。
海のずっと彼方からサバニに乗せて、可愛い女の子がねその壺を持ってあがるシーンなんていうのは相当素晴らしかったんですけど、そういうような発想を彼は持っていた。だけどそれは実現できなかった。

だけど、それ以外に金城哲夫さんが考えたことは、沖縄の美しい踊りをできるだけこの際 世界に発信しようということで、宮城美能留さんという当時の若い優秀な舞踊家でしたけど、この人と組んで、それはそれなりに全国的にも沖縄らしい雰囲気の舞台を作っていたのは間違いないですよ。