沖縄県島尻郡南風原町 南風原町観光協会 公式サイト 沖縄県島尻郡南風原町 南風原町観光協会 公式サイト メールでのお問い合わせ
金城哲夫アーカイブ

今井孝雄

プロフィール

玉川学園時代の同級生。高校生のときに金城哲夫とともに沖縄を訪問。

 

発言内容

― 金城哲夫との出会い

高校から一緒だったんだよな。クラスは違ったんですけど、彼が国語が好きで、その当時の先生が僕の先生と一緒だったから知り合うようになってですね、宮城勝久もその時一緒だった。自分は中学校からいて、要するに金城から見たら学園の先輩になるわけだけど、まあ同級生だよね。

(金城さんの)第一印象なんて覚えてないなあ。覚えてないけどね、わりと大きかったですかね。ゴツい感じというか大人みたいな感じで、みんな僕らから見たら大人みたいな感じ。

 
― 返還前の沖縄へ旅行

慰問団って名前ついてなかったと思います。別にその慰問するなんていう目的じゃあないですから。金城と宮城が企画したのか、同級生を希望者募って「沖縄へ行こう」っていう話になって。で、金城か宮城が沖縄のほうの地元をまとめてくれて、宿泊先も選んで(手配して)くれて、1週間ぐらい使って旅行にいったのかな。もっといたかもしれないね。

 

大変だったんだよ。パスポートいるでしょ。パスポートの手配をして、鹿児島から船に乗っていったんですよ。鹿児島から一昼夜列車で、鹿児島で一昼夜経って、それで船に乗って、それでみんなそれぞれの家に分宿して。
次の日また集まって、戦跡巡りしたり色んな高校行って一緒に懇親会というのか、玉川学園の人はみんな体操したり合唱して、沖縄の高校はいくつか来たと思いますね。

(当時の沖縄は)荒涼としてましたね、まだ戦後間もない頃でもないですけど。まだ緑もあんまり生えてなかったしね。まだ割と、瓦礫の山ってほどでもないけど、首里城もまだ無かった。まあやっぱり南国の感じはしましたよね。

(金城さんと宮城さんは)一生懸命やってましたよ。沖縄のサポートする人を探して、宿泊先をいったり、訪ねていくところを探したり、とにかく二人で企画したと思うんですね。まあ大概は金城がやったんでしょうけどね。

帰ってきてから、「日本にこういうことを知らせなくちゃいけないかな」と思って、書いて、「沖縄にあんまり本がなかったから本を送りましょう」って言って、色んな学校に問い合わせて使わない本があったら送って、それを2~3回送ったような気が。

 
― 東海道横断旅行

夏休みになって、俺は「東海道でも歩いてみようかな」と思ったんだよね。じゃあ、金城に声かけたら「行く」って言うんで、そうでした。東海道五十三次を歩くっていう。金城に声かけたんだよ、「行くか?」って聞いたら「行く」って言うから。一緒に。
今は東海道とか中山道とか、東海道をずっと歩くのが好きで何回も往復してますよね。

これは高校かな。大学1年の時かもしれないな。東京タワーが工事してたから、半分ぐらいできてたからね。東京タワーが完成する前の年ぐらいでしたよ。
準備なんかしてないですよ。もう行き当たりばったりで、あのなんだ、地図も持たずに行ったから、あの頃は無鉄砲だったというのかな。
金城はちょうど夏休みになると仕送り受けてたよ、ひと月分持って旅に。俺は家から一万円もらって、これ無理やりもらってた。
それで丁度一月くらい。歩いてるのは14~5日だろうと思うけどね。いや、はじめはね、玉川生のね同窓会名簿持ってて、その家に、知ってる人もいたし知らない人も、それこそ飛び込みですよ。「東京から歩いてきたんだけども泊めてくれませんか?」と、半分以上はそれで泊まってたんじゃない。それでみんな泊めてくれましたよ。

金城も俺も足にマメができちゃって歩けなくなったり大変だったけど、3日目ぐらいから慣れたから、ほんとに今思えば無茶苦茶だったね。地図もなきゃ資料もないしね。

 
― 大学時代での初舞台

卒業記念で、その時金城は初めて脚本書いたんじゃないかな。「酔人の妻」という題だったかな。ペスタロッチの話だった。だから監督、脚本、主宰、演出とか、全部あいつがやった。

僕とか宮城とか金城は教育学部だったんだよ。教職になる気なんてなかったんじゃない。親から言われたから行ってるだけでしょ。本人だってね、「先生やったってね、せいぜいどっかの校長で終わり」なんですよ。「校長なれればいいじゃん」と言ったら、あれはもっと望みが高かったんだよね。「校長ぐらいには済まんです」ってことでああゆう世界飛び込んだんだんじゃない。