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金城哲夫アーカイブ

森口 豁

プロフィール

玉川学園時代の先輩。大学卒業後は沖縄に移り、社会問題に取り組むジャーナリストに。

 

発言内容

― 出会いのきっかけは?
3年生の秋に突然彼から「森口先輩、僕たちと一緒に沖縄に行きませんか?」という声がかかったわけ。
金城哲夫のクラスメイト中心に沖縄に行く人間を募って、グループとして沖縄に行きたいと、春休みに。沖縄の同世代の若者たち、つまりは沖縄の高校生たちと交流したいと。そういう旅行を自分たちは計画していると。「ついては先輩一緒に行ってくれませんか?」ということで声かけられて。
たった15人で各高校生の前で、そういうドイツ民謡だとか、日本民謡だとか、もっと新しい歌とか、「てぃんさぐぬ花」とか、そういうのを仕込んできたから、そういうの披露するわけ。
そうするとお返しがあるでしょ。沖縄の高校生は空手見せてくれたり 琉舞をね。

その後、必ず懇談になるんです。向き合って、机椅子並べて向き合わせてね。意見交換の時間があるんです。
「自分たちはアメリカの軍政下で今こんな生活をしている。1日も早く日本復帰したいと思っている」と。でも日本復帰と口にしただけで米軍から赤のレッテルを貼られて、要するに共産主義者だと言って、不利益な 本土へ行く旅券の発行を出さないとか。「あなた達は本当の沖縄のことを知らないで帰っていくでしょう。僕にはそれが耐えられない」と言うんですよ。
これは18歳の僕にとってはものすごいショックで、居場所を失うようなね。
 
― 東京へ帰ってきて

東京帰ってから、行った人間を中心にさらに高校の仲間に呼びかけて、沖縄研究会というのを発足させるんですよ。
自分たちが旅して見てきた学んできた沖縄の実情を、沖縄で訴えた彼らに変わって、本土の同じ年代の高校生に知らせようと。放課後集まってはガリ版刷りでパンフレット作ったり。これは高校の廊下に掲示した壁新聞です。
金城哲夫は沖縄の文化について語ったり、書いてもらったり、僕は沖縄はこんな状況ですよと報告したり。それから沖縄の高校生から寄せられた作文とか詩を載せたり。

それでこの運動だけじゃ僕にとっても物足りなくなって、翌年今度は一人で旅するの。一人と言っても金城と一緒にね。
あのときも金城が一足先に夏休みで帰ってきて、僕が後から来たんだったかな。それでだから金城と僕は、言ってみれば兄弟を超えた血の結束みたいなのができあがっていってね。
金城は、当時玉川学園の寮に住んでたの、寮に。僕との付き合いが始まるにつれて、それで寮を飛び出して隣の家に彼は下宿。僕の家と背中合わせの著名人の家に下宿として引っ越してきたの。
毎日のように朝うちに来て飯食って、学校から帰ってくるとうちの家族と飯食って、みたいな。そういう家族の一員だった。

我が家の兄弟にとっても、うちの両親にとっても、金城の存在ってのは、とっても有難い嬉しい存在でね。つまり彼が帰ってくると家の中の空気が一変するのよ 。明るくなんだよ。朗らかでしょ、もうねパーッと光が差し込んできて、なんかパーッと明るくなって朗かな大きな声で、なんでもしゃべるでしょ。ほんとにね、家族の中が生き生きするね、そういうね僕たちにとっては非常に嬉しい存在でした。
 
― それぞれの道を歩まれて

彼が円谷にいるときも、円谷に僕も1・2回行きましたよ。そして彼の仕事場のぞいてお喋りして、帰り一緒に飲みに行ったりやってました。
「豁さん、豁さん、俺がやった仕事はこうだよ」と言って、彼は壁に視聴率表を山グラフを貼ってるわけ。それで「俺がやったのはこの週だ 37%だ」と。ここが落ち込んでるのは、シナリオはBさんだと。「ここで次あがってるのはまた俺だ」って言って、自慢話を散々聞かされたり関心したり。 でもだからといって僕は ウルトラQだったか、知らんけど自分から積極的に観ようって気はなくて。違う世界を生きてるんだという感じでいましたね。

僕が琉球新報を辞めて日テレの通信員とか途中で社員になるんだけど、沖縄にいるときに児童劇団作ったんですよ。で、沖縄は、僕子供が生まれて初めて気がついたんだけど、自分のこの子供たちをどこに連れていけばいいのか、どこに遊びに行けばいいのか。海は綺麗な海があるからしょっちゅう行けるけれども、それ以外に子供に親が与えられるものが沖縄に何にもないじゃないかと。

その我が身にせっつかれるような思いで児童劇団 作ったんです。つまり子供に 夢と希望をっていうキャッチフレーズで、大人が演ずる児童劇。子供が演ずる児童劇団じゃなくて、我々サラリーマンとか琉大の学生とか、教員とか主婦とか軍作業員とかの連中が15人から多いときには20人ぐらいで。「劇団 沖縄たんぽぽ」。5年やって毎週2回、月水金ぐらいで、首里の公民館に夜集まって稽古やるわけですよ。8時ぐらいから最終バスのぎりぎりまでね。
そこにね、ウルトラマンがもうすでにやってる頃、たまに金城が帰ってきたりすると、僕とはしょっちゅう飲むでしょ。僕が児童劇団やってるというのは金城には伝わるわけだな。「見せてください やってるメンバーに会わせてください」と言って稽古場を訪ねてきたりね。で、一緒に交流したり、佐々木守と市川森一とか当時ウルトラマンで一緒に脚本書いてたような大ベテランがいますよね。ああいう人が金城との絡みで沖縄に来ると、そういう人を僕たちの稽古場に連れてきて、我々のメンバーに刺激を与えてくれたりと、そういう役割を金城はやってくれたのよ。
そんななかである日ね、金城が僕に呟いたんだよね。「豁さん、すみません。僕、豁さん達がやっているこの 一生懸命やってる人たちの姿見てたら、自分がウルトラマンとかやってるのが、罪の意識を感じるような気持ちになってきた」と。 「あなたたちが、豁さん達が本当のことやってるみたいな」。金城が初めてそんなことを僕にぽろっと言った。
だからお互いにそんな本音もね、言い合えるような関係だったんです。

 
─ 沖縄に戻った金城は?

うちなー芝居が彼の言ってみれば、自分の生まれ島に対する、あるいは、自分が背負ってきた歴史に対する舞台というものを通しての表現、再評価みたいな、そういう形で出てきてると思います。
沖縄に戻ってきて何から手をつけていいかわかんない、弄っている、自分の将来を弄っている時に、琉球放送からね、「トヨタモーニングパトロール」という朝のラジオの帯番組があって、これのキャスターというのかな、やらないかと琉球放送から持ちかけられた時に、彼は「どうしたもんか?」って、真っ先に僕に相談来たんですよ。

それが 沖縄に帰ってきて初めての放送とかいう公の場に彼がデビューする始まりなんだよな。僕は桜坂の飲み屋のカウンターで、彼からこういう話がきてると持ち出されて、「どうしたもんですか?」と僕に問いかけてきたから「やれ」って言ったの。突破口にもなるだろうと、これから沖縄で生きていく上でいろんなことをやっていくに違いなし、一つのね、突破口というかスタートラインというかね、沖縄のそういうメディアの接点の仕事だから、まずやってごらんと言って始めましたよ。
朝8時ぐらいから10分か15分の番組で、みんな車の中で聞いてる人が多いんだよ。だからモーニングパトロールって言ってね、やってるわけで。それが9時ぐらいに放送終わって、車内で、あれは助手でリポーターみたいな女性が、何人かいたけど、一人ずつ順番でいたけど、その人たちと放送終わると、局のそばで飯食って、それから南風原に帰ってくるわけよね。
そのころ僕はテレビ局だから9時から9時半ぐらいに那覇の職場に出勤するわけだよ。出勤して、さあ一日始めようと思っていると、しょっちゅう哲夫から電話かかってくるんだよ。朝9時半から10時前 決まって「豁さん!ボーリングいきましょう!」。つまりさあ ストレス解消ですよ、放送でハイテンションになってるでしょ。仲間と一緒に朝飯、局の近くで食ったとはいえ、まだ収まってないわけだ。それでボーリングでもやって、全部解消して帰りたいわけよ。こっちは仕事これからやるってのにボーリングなんて。でも何回も付き合った。松山あたりにボーリング場あってさ。そういうね、彼のストレス晴らしにも付き合ったりね。
 

僕が例えばテレビの仕事をしてて、その頃ね、ノグチゲラという鳥がやんばるの森に居るらしいと。特派員として4年間やんばるに通って、ノグチゲラの撮影に挑んだわけ。4年目に成功したわけ。それを金城が、その朝刊が出た日に見て、放送終わってから、その新聞持って支局にきて「話を聞かせてくれ」と。 それでその苦労話をインタビューして、それをまた金城が番組で放送したり。

だからお互いに、彼の仕事の、彼が相談してくるようなことで、僕がこうしたらいいんじゃない、ああしたらいいんじゃないと僕がサジェスチョンし、同時に僕がやってる仕事については彼が彼なりに関心もって、ノグチゲラの時みたいに喜んでくれて、それを今度は放送で知らしてくれる、みたいな。そういう関係ね。
 

自衛隊問題で彼、悩んでた事があってね。つまり彼にとって、自衛隊が沖縄にとってどういう風な、なんなのか、沖縄の人が自衛隊をどう受け止めてるのか、なぜこんなに強く沖縄の人は自衛隊に反対するのか理解できないわけさ。
だって彼は18歳から大事な10年間ぐらいヤマトへ行っちゃって、激動期の沖縄を知らないわけだよ。逆に僕は同じ年代でこっちへ来て、激動期の沖縄を知ってるわけでしょ。だから お互いに足らないものを補える関係にある。だから自衛隊問題でも「こうだよ、これはこうだよ」とか言ったことある。
まだまだ彼の学び及ばないところ、世界が沖縄にはあったんだろね。これが僕から言えば10年の空白、金城哲夫10年の空白。つまり18歳、高校1年生で沖縄離れてしまった。帰ってきたのはいくつ? 32・3歳でしょ? ということは空白の15年だよ。僕は15年は沖縄に居て帰ってるから、お互いが15年入れ替わってた。だから僕には彼を補う義務があるし、単純に彼は僕に沖縄を学ぶ関係になるわけで。
だから、兄弟みたいな家族付き合いという面と同時に、そういう自分たち同士の仕事、表現活動を通してのお互いに支え合うみたいな関係でもあったわけよね。